ドイツでだいぶうつになってます

東京産まれ東京育ち。小学生の息子ふたり。思ってることを書き留める。

ワイルド・ソウル

上下巻を二日間で読みきった。

 

なにも知ろうとしないバカ国民。

難しいことは考えない、くさいものには蓋をして知らんふりの、優柔不断の偽善者。

棄民政策の被害者の言葉・・現代の自分にも向けられてると思って読んだ。

 

1960年代といえば、私の母が小学生のころ。

戦争を生き抜いた祖父は東京で小さな町工場を開いて、

家族は貧しいながらも穏やかに暮らしていたはず。

その同じ時に、こんな酷い出来事が、起きてたなんて・・

 

とにかくアマゾン開墾時代が地獄すぎる。

アマゾン奥地を脱出後~青果卸になるまでも凄まじいのひとこと。

上巻まるごと地獄苦境。

 

読了後もこの本の表紙を見るだけで脳内に地獄の文字が浮かぶ。

同時に映像とか南米の湿った空気とか匂いを、まだ感じる。

 

南米棄民についての記事や手記を貪り読んだ。

日本政府はずっと前から国民を棄てていたんだ。

強いメッセージを受け取ったあと、

すごい書き手だな、この人のことを知りたい、

と閃光にうたれたかのようにインタビューなどを読み漁った。

垣根涼介氏、好きになった。この人の日本語のちからはすごい。

 

マウンティングする人

現職についてからもうすぐ○年。

入社直後からうっすらとストレスに感じていたことが、

最近はっきりと不快感に変わってきたので気持ちを整理するために書く。

 

いわゆる「マウンティングする人」が近くにいる。

この、Aさん(とする)はそのやりかたがよくいえば熟練。

具体的には、その場にいない人やものについての見下しやほのめかし。

核心の部分の寸止めラインまでを発言して、素早く反応を見る。

そもそも意図的に核心をぼやかせているので、

周りは曖昧に薄ら笑いや苦笑いをするしか無い。

すると、Aさんの中ではGo。

にやにやしながら失礼な発言をする。

多くの人の薄ら笑いが消えかけて、えっ・・となる。

少し上の立場の人が同席していれば「それひどいなー」とか言って諌める。

Aさんは笑いながら「そうかなー」とか言ってる。

この一連の流れは、

Aさんの脳内では「みんな笑ってたし同意してた」に変換される。

 

実際の話し始めが結構地味なので、

目くじら立てて強い反応する人の方が大げさ、という図式になる感じでやる。

話しているときの表情は、わくわくしているのが隠しきれないという感じで、

楽しそうなのだ。

うわさ話や人の不運に浮き立ち、あまつさえ職場の人間と共有して楽しもうとする

あざとさに嫌悪感。

実年齢とのギャップで余計にちっぽけな人に見えてくるのだ。

そして

辛く感じるのは、

自分の実力ではこんな人が上に立つ会社にしか就職出来ないのだから仕方ない我慢するしか無いのだ、という思考に入ってしまうこと。

ドイツ市場で仕事を探したくて勉強しているがそれはまた別の話。

 

とにかく私もあからさまに否定せずにやり過ごしてきた結果、

最近、体が拒否反応を示すようになりかなり苦しくなってきたので

「周りを下げて自己肯定感を高める人」の記事を探して心理的なことを学んでみた。


他人との比較によって快感を得る。

自分が勝っていると思うことで「自分はすごい」という

ナルシズム的な幻想に浸って悦に入る。

それが快感なので他人へのマウンティングが止められない。

なるべくたくさんの軸で他人に勝っているかどうかを確認したいので、

相手の個人情報を欲しがるので人との距離感がおかしくなる。

失敗することを避け、確信のもてる行動だけをする。

 

読んでみると、自分も無意識にこのような心理状態になる事がある。

他所の事情を聞いたり読んだりして少し安心したり。

我ながらかっこ悪い。

耳に入ってきた他人の事情と自身のそれとを比較して気持ちが上下することは誰でも多少はあると思う。

しかし

Aさんのように意図的に戦略的にやり続けるとなんとも言えない毒気が出てくる。

なによりかっこ悪い。自分も本気で気をつけようと思った。

気をつけるって?つまり自分が自信を持てるように努力するしか無い。

 

そして、今後の対策をまとめてみた。


話題を掘り下げない。
話題を変える。
反応しない。
席を立つ。

 

自分や自分の大事な人を貶す発言をされたら絶対に我慢しない。

「発言オウム返し」・「これはどういう意味ですか?」・「不快です」

で返す。ゆるしませんよ。

 

 

 

 

 

 

 

なんで家事育児がこんなにつらいのか

まず、家事。

疲れていても、時間が遅くても、やりたくなくてもやらなければならない。

これって当然。仕事と同じ。雇用主は家計の大半を賄ってる夫。

だから、頑張るしか無いかーって思えるけどさ。

でもね、家の労働って給料もらえないんだよね。

評価(賞与や昇格)もない。

 

そして育児が加わるとこの仕事はブラック労働になる。

朝夜区切りなしの超過労働、

ひたすら子に振り回される理不尽、

性神話で語られる母親像と違う自分に罪悪感、

これらが前提にあって衣食住を維持しなければならない。心身がぼろぼろになる。

そして忘れてはならないのが、その前の出産。

心身のダメージを抱えたまま、ブラック労働が始まるということ。 

 

ひとつ言いたい。

家の中の仕事を、一般的な仕事と同じ土俵に置くことは出来ない。

目的が違う。得られる対価も、違う。

外での労働は、

労働力を提供し、所属先の利益をあげる努力をし、

自身と家族を養い、自分の価値を上げるという目的がある。

対価として、給料と場合によっては評価を得る。

 

家事育児労働では、

現在と未来の労働力及び税金を国に提供し、

家庭を運営しながら、子を教育し巣立たせるという目的。

対価としてあったりなかったりする幸福感を得る。

この幸福感というのは、形がないものだ。

 

あと、個人的に思うのは育児やってるとどうしても脳が退化するように思う。

脳が進化するチャンスが減るのだ。

乳児や幼児が同じ空間にいると落ち着いて思考が出来ないので、

体と脳が束縛される。要するに作業がてんではかどらない。

脳科学の本で読んだのだけど、

計画→実行→達成の流れの中で最後の達成部分を体験出来ないと、

脳は快感というご褒美がもらえないのでけっこう戸惑うらしい。

「えっ?頑張ったのに何ももらえないのかー・・」って感じかな。

脳のやつ、かわいそうすぎ。

 ご褒美無しで頑張り続ける数年間、脳にとって強いストレスだと思う。

 

なまじ、

子を持つまでは「出来るはずのどってことない作業」を、

ろくに完遂出来ない自分の手足と、ご褒美もらえない脳。

無力感のかたまりが出来上がる。

「要領が悪いから・・」「皆やってること」「昔の人はもっと大変だった」

「夫は社会で頑張ってる」「なんでできないんだろー」

「(子供に対して)ごめんね・・」「こんなママだめだよね・・」

等々、呪いの言葉で自分をいじめる。褒めてあげない。

自己評価はどんどんさがる。

 

家事育児がつらいのは、自分の価値がわからなくなるから。

自分がいなくなるから。

 

 

 

 

 

 

東京からドイツの田舎に来て10年以上たったけどつらいわ

無の境地になってきたドイツ暮らし。

基本的には辛い。


海外暮らしの不便さや寂しさはどうしようもないのでどうしようもない。

言葉も学んでいるし仕事もしている。

出来る努力はやっているのだと淡々と。

 

総じて、海外でも日本でもどこの地域でも悩みやストレスはいつもある。

そもそも、苦しみの根源は内面にあるものだから

場所を変えても苦しみから逃げることは出来ないと思っている。

 

その上で、つらさの正体はなんだろうと掘り下げてみた。

結論は、

「ストレスや退屈を紛らわすキラキラアイテムの少なさ」。

 

「キラキラアイテム」って、日本ではどこでも平均的にあったもの。

「便利さ」「美味しいもの」「低予算でも美味しい」「おしゃれなモノ・ヒト」

「美味しいものや心地よさは買える」「お店は基本的に親切」

見つけたり、取り入れたり、出会ったりして、

気分転換になって、元気が出るサプリのようなものと定義してみた。

 

しかし、

ドイツって(ベルリンなどの大都市は別として)、

このサプリ「キラキラ」が足りない。

 

まず、美味しいものが足りない。

これは在住日本人ブロガーさん達が書いていらっしゃるので割愛。

基本的に同じモノやコト+自国製品が好きな国民なので、

パン屋・ケーキ屋さんの品揃えが硬直している。変わらない。

隣国の商品は日本の方がたくさんある。えっ

 

おしゃれなモノ・ヒトが見当たらない。

おしゃれに重きを置いていない国なので、

夏はTシャツにジーンズ、冬はフリースジャケットやダウンコート。

 

一方、日本人はおしゃれになるために大変な努力を重ねていることがわかる。

まずもって洋服自体が西洋人が考案発展させてきたものだから、

頑張らないとそもそも形にならないし。

 

今住んでいるところは人口54万人の地方都市で、

生活に必要なものはコンパクトに買い周りが可能。

治安もよくひろびろとしているので子育てにはとてもいい環境だと思う。

ただ、

自分の場合、東京が標準になっているので、

「街の楽しさ」というところを掘り下げると、

どこにいっても刺激が足りない運命。それは仕方ない。

 

しかし、

楽しい時間を得ようと思って街に出かけて(期待)、

商店の店員さんからお釣りをぺっと投げられたり、

レジでイレギュラーな事を頼んだら、

レジ係に不機嫌にペンをばーんっと叩きつけられたり、

仏頂面で飲み物をがーんっと机に置かれたり、

単純に居心地が悪くなる(期待が満たされない)。

これ、発生頻度が日本に比べると格段に高い。

 

「お客様は神様」は日本だけ、

そもそもサービス業の概念が違う事は頭ではわかっている。

 

しかし、

これはお店での対応に限った話ではなくて、

家族や友人や職場等の人間関係でも、基本的に、

自分優先・自己中心的でOK。

というか一周まわってこれが良し。

 

相手の期待を察して動いたり思い遣ったりするの、

人間っていいな素敵だなってなるよね。

学校・職場など人が集まる組織内では、

自分の評価が上がったり相互関係で働きやすくなる事も当然ある。

新たな価値を生むと思う。

しかし、価値感って環境で変わるのだ。

 

ヨーロッパのドイツの南あたりでしか暮らしたことはないけど

ここでは評価されないしもっと言うと価値があまり無い。

それが本当の意味で腑におちるまで私は10年かかった。

 

そして怖いのが、(腑におちてはいても)心は反射反応する所なので、結構疲弊する。

 

そして、「キラキラ」が手に入らないので疲弊した心がケアされないまま冬が来る。

わたしはこれの蓄積でうつになった。

 

「キラキラ」に依存しているのに、

「キラキラ」がない環境でこの先も生きなければならない。

受け身で享受してきた「キラキラ」への執着をたちきって、

別のなにかを探すしかない、

いままでやったことが無いコトでかつ能動的な事をやろう。

ブログやってみようと思いました。

 

「ポジティブに自己中」

「日本人が心を守りながらドイツで暮らす」

「喧嘩上等ドイツ人を論破する方法」

「ヨーロッパに住むアジア人」

「40代のリアルファッション@ドイツ田舎」

 

こんなかんじでいってみようと思います。